三州、羽州

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 吉田宿の本陣は現在のJR東海道線・豊橋駅から見れば、北東側に位置している。松尾芭蕉は本陣からは少し距離がある旅籠に泊まって、「寒けれど二人旅寝ぞたのもしき」という句を残した。街道が栄えた昔ですらそうした心持なのだから、自分が見た、道路脇に句碑だけ残った風景だと、余計に心細さを感じる。現代豊橋の賑わいの中心は、駅付近に移っているようだ。自分が泊まった宿はいずれも、豊橋駅南口のにぎやかな街中だった。

 放浪の博物学者・菅江真澄(1754-1829)が生まれたと伝えられているのは、三河吉田藩の牟呂村。いま地図で調べてみれば、昔の本陣からは今の豊橋駅をはさんで対角線上、南西あたりに、牟呂という地名が残っている。東海道歩きのガイドブックでは、まったく触れられていない。何だ、泊まったあたりの近くだったのか、と今さらにして思うが、もし知っていたところで、足を伸ばしていたかどうかは怪しい。

  牟呂の地名は菅江真澄の出身地というよりもむしろ、1867年に「ええじゃないか」が起こったと考えられる場所の一つとして知られているようだ。伝説では牟呂八幡社に、伊勢神宮のお札が降ってきたことがきっかけという。お蔭参りで伊勢まで行くには、三河の東端の吉田からだと、三河、尾張を越えていく。健脚の昔の人が躁状態ならば、それこそあっという間の距離なのかも知れない。

 菅江真澄は各地をさすらった後、出羽国秋田藩(久保田藩)に腰を落ち着ける。藩内をいろいろと周り、男鹿半島の寒風山(かんぷうざん)も訪れた。菅江真澄の著作には古い和名の「妻恋山」「羽吹風山」が記録されている。地名の由来は、上記ページに書かれてますね。

 遮るものなく強い風が吹く「羽吹風山」。今ネットで調べた限りでは、「はふかぜやま」と読む。ただし司馬遼太郎の著作では「はぶかぜやま」とルビが打たれていた。もし濁ってそうとも読むのであれば、秋田でおこなわれる名人戦第5局の小ネタになるかな、と思った。まあ出羽国、羽州の地名だけ見ても、羽生名人の名前にからんでいる気はするけれど。

  東海道歩きが終わったら、次は中山道。さらには他の街道も、人生の持ち時間の許す限り、めぐって歩きたいとよく思う。羽州街道のイメージは、リアル奥の細道。自分にとって47都道府県でまだ訪れたことがないのは、秋田県だけとなった。


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