幕末メモ(1)

江戸時代に唐津街道の宿場町「赤間宿」として栄えた福岡県宗像市の赤間地区で、坂本龍馬と西郷隆盛が対局した際に使ったと伝えられる碁盤の存在が明らかとなり、街おこしに役立てようという動きが出ている。幕末の赤間宿には、京都を追われた尊王攘夷派の三条実美ら「五卿」が滞在し、勤王の志士たちが頻繁に出入りしていた。
坂本龍馬と西郷隆盛が対局?古老伝承の碁盤(読売新聞)

近くまではしばしば行くのだが、唐津には一度も行ったことがない。
5世名人・二代伊藤宗印(鶴田玄庵)の生家は、唐津の鎮道寺なので、一度は訪れてみたい。
できれば唐津街道も歩いてみたいものだ。

(※追記。出光佐三(1885-1981)は赤間出身。出光創業の地は門司。
百田尚樹『海賊とよばれた男』は面白く読んだが、門司・小倉対岸の下関の言葉がほとんど変わりないように書かれていた点は、実は微妙に違うんですよ、と突っ込みたくなった)

 

ところで自分は高校時、下関(古名だと赤間関だな)の中山神社から歩いて数分のアパートに住んでいた。
幕末、長州に逃れていた中山忠光(明治天皇の母方の叔父)は、預けられ先の長府藩の手で暗殺されてしまう。
中山神社は、その中山忠光を祭っている。

他国から逃れてきた政治的な亡命者や政治犯をいかに遇するかで、その国の評判は違ってくる。
長府藩は元禄時にも大きな失敗をおかしている。
討ち入りに成功した後の赤穂浪士は、身柄を四家に預けられた。
肥後細川藩では浪士を厚遇したが、長府毛利藩では逆に冷遇したため、他家からの評判を大きく落とす。
以来幕末まで延々と陰口をたたかれ続けたとか。
赤穂浪士は公的には重罪人だが、裏では『碁盤太平記』の昔から、庶民だけでなく、武士にとっても英雄だったわけだ。

1979年から連載されている、みなもと太郎『風雲児たち』。
最新刊(幕末編21)でようやく「桜田門外の変」にまでたどりついた。
大河ドラマ「八重の桜」では進行上の都合なのだろう、軽く流されてましたね。
桜田門外で井伊直弼一行を襲撃し負傷した水戸浪士は、赤穂浪士の先例に習って、細川家などでまた厚く遇されたとか。

ところで赤穂浪士は討ち入り後、高輪の泉岳寺に入る前に、すぐ近くの上行寺に立ち入りを拒まれたという伝承があるそうだ。

赤穂浪士四十七士が吉良上野介を討ち取り、その首を持ちまず立ち寄ったのがこの上行寺であった。当時、徳川幕府との繋がりが強かった寺であるために、時の住職は立ち寄りを強く拒み、帰してしまった。行き所の無くなった赤穂浪士たちは、海辺の方へと歩みを進め、そこにあった泉岳寺へと行ったのである。当時上行寺は、現在の港区高輪二本榎に伽藍があり、そこは旧東海道に面して吉良邸の帰り道に寺はあった。時の住職が断らなければ四十七士の墓は、ここ上行寺にあったに違いない。しかしこの話には、裏付けする文献等は当寺には無く、口伝を伝承するのみになっています。
(「赤穂浪士お立ち寄りの名刹」上行寺)

この上行寺、実は将棋の大橋本家の墓所。
赤穂浪士を受け入れていれば、もっと有名な寺になっていたのだろう。