医師宗桂と、将棋師宗桂
瑞泉寺を出ると、すぐに高瀬川。要するに瑞泉寺は、鴨川と高瀬川にはさまれた場所に建っている。
瑞泉寺は豪商角倉了以(1554-1614)が高瀬川の開削をおこなう際に秀次らの塚を見つけ、慶長16(1611)年、その菩提を弔い建立したという。弟で医師の吉田宗恂(1557-1610)はかつて秀次に仕えており、宗恂の一周忌でもあった。
了以や宗恂の父である、吉田宗桂(1512-1572)は医師だった。兄の了以は大商人となり、弟の宗恂が父を継いで医師になったわけだ。さて吉田宗桂は将棋マニアならすぐにわかる通り、1世名人初代大橋宗桂(1555-1634)と同じ名前である。そしてすぐにわかる通り、同一人物ではない。
ところで初代大橋宗桂は京都の医師だった、という記述を今でもしばしば目にすることがあるが、これは間違いだ。1950年頃、この間違いに気づいたのは将棋史研究家の天狗太郎氏。その著書で繰り返し興奮気味に書かれている通り、『武江年表』(1850年刊)の慶長15(1610)年の項目がおかしかった。『武江年表』は江戸300年の様々を編年体で記した名著だそうだが、手元にないので天狗氏の著作から孫引きする。
――官位吉田宗恂卒、五十三歳、其子宗達また良医の聞えあり、大橋宗桂も宗恂が男なり、将棋図式一巻を著す……。
宗達が宗恂の子で合っているかどうかは知らないが、まあ合っているとしても、大橋宗桂は明らかに宗恂の息子ではない。宗桂という名がからんでいる故に、どういうわけか間違いにつながったんですかね。整理するとこうですか。
吉田宗桂(医師)┬角倉了以(商人)
└吉田宗恂(医師)┬宗達(医師)
×└宗桂(将棋師)
あれ、そうすると、どこかで目にした(どこだっけ?)初代大橋宗桂が近江出身だという記述も、以上の間違いから来てるのだろうか。吉田家は佐々木氏の分家で、近江国犬上郡吉田村出身だという。ということは結局、初代大橋宗桂は、生まれも育ちも京都の人なんだろうか。そこまではわからないですけど。
さてそれにしても。日本史の教科書にも載る角倉了以は言うに及ばず、吉田宗桂は足利12代将軍・義晴の侍医というのだから、かなりの有名人。これほど有名な一族にちなんだ間違いなのだから、誰かがすぐに気づきそうなものである。100年近くスルーはひどくないですか。今も昔も将棋史は、かなりなマイナー分野ということか。

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