2003年名人戦第3局(控え室の検討)
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩(4手目まで)
■振り飛車模様
立会人青野照市九段の合図で対局開始。先手番森内名人の初手は▲7六歩。対して羽生王将は△3四歩。後手番の羽生の作戦が注目されたが、△4四歩と角道を止め、振り飛車模様の立ち上がりとなった。NHK衛星放送の解説、加藤一二三九段のコメントは「予想外の作戦」。
▲2五歩 △3三角 ▲4八銀 △9四歩 ▲5八金右 △4二飛
(5手目から10手目まで)
■羽生、四間飛車に
森内は5手目という早い段階で▲2五歩と飛車先を決める。後手に向かい飛車にされる可能性が生じるが、その代わりに矢倉など、居飛車の可能性をなくすことができる。これが副立会人の鈴木大介新八段の見解。鈴木八段は現在28歳。今年度から、名人挑戦権を争うA級棋士10人の仲間入りを果たした。生粋の振り飛車党で、誰もが認める若手実力者。明快な解説にも定評がある。
羽生の△9四歩は「現代流」(鈴木八段)。なかなか態度を明らかにしないつもり。森内の▲5八金右は向かい飛車を警戒した手。▲5六歩でも悪いわけではないが、6八に玉を上がるタイミングが難しくなる。△2二飛から向かい飛車にされ、2四に角を出られたときに王手になるからだ。ここでようやく羽生は態度を明らかにする。△4二飛。羽生の作戦は四間飛車だった。
▲6八玉 △3二銀 ▲7八玉 △4三銀 ▲5六歩 △7二銀
▲5七銀 △9五歩 ▲3六歩 △6二玉 (11手目から20手目まで)
■急戦か持久戦か
居飛車側の森内は持久戦調。対して振り飛車側の羽生は藤井システム調。言うまでもなく、振り飛車側は、居飛車にすんなりと穴熊に組まれることを警戒している。対して森内の▲3六歩は急戦をにおわせた手。この手を見て、羽生は△6二玉と上がり、居玉を解消する。ここで▲3五歩からの急戦が成立するかどうかは、現在の将棋界にける重要なテーマのひとつ。定跡最前線と言ってもよい。十局以上の実戦例がある。結果だけを見ると、対戦成績はほぼ互角である。
▲3五歩 △3二飛(21手目から22手目まで)
■名人、決断の仕掛け
1日目の午前中としては、異例ともいえる早さで指し手が進んでいる。ただし、本シリーズの1局目、2局目とも森内の指し手は早かった。「作戦を練りに練って対局に臨んでいる感じがする」(鈴木八段)。活気づく控え室に森内の次の一手が伝えられる。▲3五歩――。大きなどよめき。名人、決断の仕掛けである。「やってくれましたね、よし。元気があってよろしい」。加藤九段の大きな声に笑いが起こる。その場にいる誰もが、加藤九段の思いを知っているからだ。
■振り飛車VS急戦
昭和30年代はじめまで、振り飛車はプロの間ではあまり指されていなかった。素人が指す戦法と見なされていたのである。それを升田幸三、大山康晴の両名人が採用し始めたことから爆発的なブームを呼ぶ。名人戦の大舞台においても、数多くの振り飛車の名局が生まれた。升田、大山は飛車を振り続け、勝ち続けた。その両者の全盛期から現在にいたるまで、急戦を最善と信じ、情熱あふれる新定跡を次々と発表していったのが、加藤九段である。加藤九段が著した定跡書を何度も読んで勉強したという将棋ファンの方々は、その時代の熱気を今でも思い起こすことができるだろう。加藤九段の信念は、今でも変わらない。
そして正立会人の青野九段は「鷺宮定跡」にその名を残す、対振り飛車急戦のエキスパートである。青野九段は現在50歳。堂々たる現役のA級棋士で、今年度は11期目となる。昨年は2回戦で谷川浩司王位、3回戦で佐藤康光棋聖という両名人経験者を降している。
居飛車急戦党の加藤九段、青野九段、振り飛車党の鈴木八段が継ぎ盤を囲み、活発な検討が始まった。
■定跡最前線
▲3五歩に対する対応は大きく分けて(1)△3五同歩(2)△3二金(3)△3二飛の3通りがある。
(1)△3五同歩に対しては▲4六銀と出る。以下△3六歩▲2六飛△3二飛▲3五銀△4五歩▲3三角成△同飛▲5七角と進んだのが代表的な実戦例(2001年王将戦、▲郷田-△久保戦)。この展開になれば最終手の▲5七角の味がよく、居飛車優勢ではないか、というのが鈴木八段の見解。もちろんさまざまな変化があり、一筋縄でいくわけではないが、結果だけを見れば(1)3五同歩と(2)△3二金は振り飛車側が1局も勝利をあげられていない。
そこで現段階では(3)△3二飛が最有力ではないかというのが、プロ間における一般的な認識のようだ。果たして、羽生の応手は△3二飛だった。
▲4六歩 △3五歩 ▲4五歩 △5二金左 ▲4四歩 △3四銀
▲4八飛(23手目から29手目まで)
■「名人詰」
今期名人戦の開幕を記念して作られた詰将棋を、何人かの記者が考えている。将棋連盟が発行する専門誌「将棋世界」の最新号に掲載されている問題で、現在ホームページ上でも公開されている。名づけて「名人詰」。驚くべきことに左上の18枚の駒が「名」、右下の7枚の駒が「人」という文字を描いている。作者は山田康平さん。山田さんは詰将棋界最高の賞である「看寿賞」の受賞経験者。現代を代表する詰将棋作家の一人である。
この「名人詰」、詰むまでに数十手はかかる大作のようだ。それでもあともう少しというところまで進んだが、どうしても詰まない。記者数人がうんうんとうなっているところを鈴木八段が通り、盤面をちらりと見て、「ここからは簡単ですね」。一目で詰ませてしまった。
■昼食休憩
羽生の△3二飛に対して、森内はほとんど時間を置かずに、▲4六歩。研究どおり、というところだろうか。さらに手は進み、▲4八飛と回ったところで昼食休憩となった。ここまでもやはり実戦例が存在する。以下、△4二飛▲4六銀△7一玉▲4五銀△同銀▲同飛△3四銀――。本局もこの通りに進む可能性は高いようだ。
■天才・加藤一二三
NHKの後藤理アナウンサーが控え室を訪れる。お父さんが大変な将棋ファンで、今回の仕事に関してはずいぶんとうらやましがられたそうだ。その後藤アナが加藤九段から伺ったという話。なんでも加藤九段はこの名人戦を前にして、森内-羽生戦の棋譜を、三十数局、時間をかけて並べたのだそうだ。中には6時間以上かけて調べた一局もあったとのこと。加藤九段は1940(昭和15)年生まれの63歳。その変わらぬ情熱は、どこから湧き上がってくるのか。
加藤九段に関する話題になると、誰もが嬉しそうな顔をする。それはアマチュアの加藤ファンだけではない。プロも、業界関係者も同じなのだ。
△4二飛 ▲4六銀 △7一玉(30手目から32手目まで)
■加藤九段の予想
13時30分、対局再開。羽生の次の一手は△4二飛。控え室の予想通り。以下▲4六銀△7一玉▲4五銀△同銀▲同飛△3四銀と進むとどうなるか。先手はどこかに飛車を逃げる。(1)▲4九飛と引くか、あるいは(2)▲4八飛と引くか。
(1)▲4九飛と引いたのは▲郷田-△神谷戦(2001年11月、B級1組順位戦)。以下△4五歩に▲3二歩(手筋)△4四角▲同角△同飛▲2二角と進んだ。▲3二歩は「垂れ歩」の手筋。△4四角▲同角△同飛と大駒をさばいて振り飛車好調のようだが、居飛車も▲2二角から駒得を図れるのが大きい。
そこで羽生王将は▲3二歩を△同飛と取る構想を描いているのではないか――。これが加藤九段の予想である。一見振り飛車側が大きく利かされたようだが、有望な変化は多い。以下(A)▲4一銀(B)▲4三銀が考えられる。
(A)▲4一銀は△4二飛▲5二銀成△同金。振り飛車は守りの金がはがされたとはいえ、居飛車は歩切れが大きく、さらには4四歩を支えるのが難しい。これは振り飛車が面白いだろう。
(B)▲4三銀は△同銀▲同歩成△同金▲3三角成△同桂。以下▲2一角等の手段はあるが、振り飛車の感覚からすれば△3三同桂と取ることができるのは抜群の味といえる。
■水面下の変化
▲4六銀△7一玉。
過去の実戦例、そして控え室の予想そのままに局面は推移している。
先ほど示した変化の検討に戻る。△7一玉以下▲4五銀△同銀▲同飛△3四銀と進んだときに(1)▲4九飛ではなく、(2)▲4八飛と引くのはどうだろうか。▲4九飛と比べて、飛車にひもをつけた意味がある。以下△4五歩▲3二歩△同飛と同様に進んだときに、今度は銀を打つのではなく、▲2四歩(後の△1五角出を防ぐ)△同歩に▲3七桂跳ねが絶好となる。さらに進めると、△4二飛▲4五桂△4四角▲同角△同飛に、▲5三桂不成が絶妙手。以下、
(C)△4八飛成なら▲6一桂成と王手で金を取り、△同銀▲4八金(こうして飛車を取り返せるのが▲4八飛と引いた効果)で先手優勢。
(D)△5三同金なら、▲4四飛△同金▲5三角の王手金取り。△6二角なら▲同角成で、後手はこの馬を取る形がない。
符号が多くて恐縮ですが、以上は控え室における検討のほんの一部を紹介したものです。
▲3二歩(33手目)
■名人の新手
羽生の△7一玉に対して、森内の動きが止まる。長考。
70分以上考えた末、森内が示したのは、▲3二歩だった。過去に例のない一手――。すなわち、新手である。
過去の実戦例、そして控え室の検討は、▲4五銀から△同銀▲同飛△3四銀▲4九(4八)飛△4五歩の交換を入れてからの▲3二歩だった。名人の新手を見て、控室で再び研究が始まる。
■新手の真意は?
控え室では森内の新手▲3二歩の意図をはかりかねていた。森内がよくなる順がなかなか見つからないのである。
森内の長考に続き、羽生も長考に入った。
(1)△4四角▲同角△同飛ならば、▲2二角となって、過去の実戦例に戻る(▲2二角の代わり、▲3一歩成も有力)。これは先手も相当やれる。この時点では
(2)よって△3二同飛と取り、▲4五銀△同銀▲同飛△3四銀と進むだろう。以下、
(2-1)▲4八飛と引き、△4五歩と打ってくれば、これまで検討した変化に合流。▲2四歩△同歩▲3七桂で先手好調である。しかし、こうはならない。△4五歩と打たずに△4二飛が、争点に飛車を回る振り飛車の常套手段。以下
(A)▲3七桂には△8二玉の入城がぴったり。美濃囲いの堅さ、玉の遠さが生きる展開になりそうだ。また、
(B)▲4三銀△同銀▲同歩成△8八角成▲同銀△4三飛▲同飛成△同金▲4一飛△5二銀のような展開も振り飛車の望むところである。
(2-2)飛車を逃げず、△4二飛と戻られる前に▲4三銀と打ち込むのはどうか。△4三同金▲同歩成△8八角成▲同銀△4五銀▲3二と△3九飛は先手が勝てない。先手は壁銀がひどい形なのだ。
控え室の継ぎ盤には振り飛車側に加藤九段、居飛車側に青野九段が座る。加藤九段はふんふんとうなずきながら、たちどころに優勢の局面を築き上げる。
森内の新手の真意はいったいどこにあるのか。
■長考の応酬
評判のよくなかった森内の新手▲3二歩だが、青野九段が新しい手段を示し、再び検討が活発になった。
整理すると、▲3二歩△同飛▲4五銀△同銀▲同飛△3四銀▲4三銀△同金▲同歩成△8八角成に▲同銀は「壁銀」のひどい形。△3九飛などと打たれて問題にならない。ならば▲8八同玉はどうだろか? △8八角成の角交換に対しては▲同銀と取るのが「形」で、将棋の常識ともいえるだろう。対して▲同玉と取る手はあまり考えられない。角筋に入りやすい、6九金が浮き駒になるなどのデメリットが大きいからである。実際、▲8八同玉に対して△3九飛と先手で飛車を打ちこまれたらどうするのか。これには
(1)▲5九飛の自陣飛車がまず青野九段が示した継続手。後手が飛車をどこかに成り返れば、じっと▲4二と、とプレッシャーをかけておく。
(2)飛車を手放して不満というのであれば、▲5九金打と入れておくのがしっかりした形。これで振り飛車側も容易ではない。
森内が想定しているのは、このような変化ではないだろうか。
羽生はまだ動かない。
■羽生、3局続けて封じ手
2時間以上もの間、羽生は考えつづけた。5時30分。規定の時刻が過ぎる。第1局、第2局に続き、またもや羽生が手を封じることとなった。
予想される手はまず(1)△3二同飛。こう指せば必ず決戦となる。成算がなければ指せない手とも言える。
また、(2)△4一飛も考えられるところ。次に△8二玉と入り、それから決戦となればはっきり得である。果たしてその余裕はあるだろうか。
「△3二同飛は居飛車党感覚、△4一飛は振り飛車党感覚の一手」(鈴木八段)。
■対局室の熱気
仕事を終えた記録係の岡本洋介初段が控え室を訪れる。封じ手の予想は△3二同飛とのこと。岡本初段は居飛車党だそうだ。
今日午後のはじめ、森内名人から暑いので部屋の温度を下げてほしい、という要望があった。対して羽生王将は、そのままでいい、という意見。話し合いの結果、羽生王将の主張が通った。「今日は一日、暑くて仕方ありませんでした」(岡本初段)。
明日2日目は午前9時に再開される。
△4四角(34手目)
■対局開始前の風景
8時20分。控え室ではスタッフが対局開始前の準備をしながら、羽生王将の封じ手の予想をしている。1番人気は大決戦の順が待ち受ける、△3二同飛。続いて曲線的な展開が予想される△4一飛。
8時40分、スタッフは対局室に向かい、控え室から人影が消える。対局室の様子を伝えるモニターには、盤側に座り両対局者の入室を待つ、正立会人の青野照市九段、副立会人の鈴木大介八段、記録係の岡本洋介初段の姿が映る。
■大橋流
8時53分、森内名人が入室。上座に座る。ほどなく羽生挑戦者も入室。森内名人が駒箱から駒袋を取り出し、盤上に駒をあける。続いて名人が「王将」を、羽生挑戦者が「玉将」を所定の位置に置く。古来より上位者が「王将」を、下位者が「玉将」を持つのが将棋界の慣習である。後の順は問わないのだが、両者は交互に左金、右金、左銀、右銀……という順で一段目を並べ、続いて角、飛を並べる。この並べ方を「大橋流」という。他に「伊藤流」という並べ方もあるが、プロ棋士のほとんどは大橋流を選ぶ。大橋、伊藤は江戸時代の将棋の家元の家名である。現在の実力名人制が始まるはるか以前、大橋本家からは初代大橋宗桂以来4名、大橋分家からは2名、伊藤家からは5名の名人を輩出している。
■封じ手は△4四角
「先手森内名人▲7六歩、後手挑戦者羽生王将△3六歩、先手▲2六歩、後手△4四歩、……」。記録係の岡本初段が第1日目の手順を読み上げ、その声に従って、両対局者が昨日の手順を再現していく。
定刻9時。NHK衛星放送の中継が始まる。青野九段が封じ手を開き、羽生王将の次の一手を読み上げる。「封じ手は△4四角――」。
ほとんど誰も予想しない一手。名人が頭に手をやる。あるいは、名人にとっても予想外の一手だったか。廊下をはさんで控え室の隣りにある大盤解説場からは、どよめきがあがる。加藤九段のコメントは「意表をつかれました」。
控え室に戻ってきた青野九段は「僕もびっくりしましたよ。(封じ手用紙を)もう一度見直した」と笑った。
鈴木八段は、「考えられない手ではないが、びっくりしました。一番な大胆な手を指す、羽生王将らしい手だと思いました。スケールの大きな手です。さすがに長考しただけあって、一番読みづらいところをしっかりと読んでいる感じです」。
▲4四同角 △同 飛 ▲5五角 △7四飛 ▲1一角成 △7六飛
(35手目から40手目まで)
■初王手
封じ手開封から十数分後、森内名人の次の一手は▲4四同角。早い。続いて△同飛▲5五角△7四飛▲1一角成△7六飛まですらすらと進む。初王手。控え室では▲7七香△5六飛と進んだときに先手はどう指すかという検討がされている。次に△4五歩▲3七銀△3六歩▲2八銀と、銀を辺境に追いやられてはつらい。
▲8八玉(41手目)
■封じ手の成否
羽生の△7六飛の王手に対して、森内が考え込んでいる。
「あんなに驚いている森内さんは見たことがないね」。誰かがつぶやく。封じ手を示された際の名人の様子を言っている。
「もし3時間考えたとすると、△4四角はたぶん5分ぐらいしか考ていないと思います」(鈴木八段)。それならばどうして森内はすぐ▲同角と応じたのか、という問いには「取る一手ですからね。それに考えていては、読み抜けがあったと思われてしまう……」。
森内は手順に馬をつくりながら香得を果たした。羽生の中段の飛車は4六銀の存在でさばくのが難しそう。しかし
(1)▲7七香△5六飛の次、具体的にどう指すかとなると、簡単ではない。
(2)では▲8八玉はどうだろうか。加藤九段の解説では、この手が本命とされていたようだ。
10時20分過ぎ。名人の次の一手は▲8八玉だった。
△5六飛 ▲4七金(42手目から43手目まで)
■中盤の難所
森内の▲8八玉に対して羽生は△5六飛。この飛車に対してどう対処するか。11時から再開された大盤解説会では、加藤九段と鈴木八段が▲4七金、▲5五馬、▲3一歩成などの候補手をあげていた。検討が続けられる中、森内の指し手が伝えられる。▲4七金。対して、
(1)△5四飛と逃げるのは▲5五銀△7四飛▲2一馬で先手の駒得がさらに広がる。これは先手がはっきり良さそう。そこで加藤九段が示したのは、
(2)△3九角。「この手は(意見に)出ていませんでした」という鈴木八段に対して、加藤九段は「私の第一感はこうでした」。大盤解説場に笑いが起こる。すばらしい発想のようで、鈴木八段も感心しきりだが、それで後手がよくなるかどうかは難しい。▲4九飛は△4六飛▲同金△2八角成。▲3八飛は△4六飛▲同金△5七角成。いずれもこの後先手は▲4一飛で攻め合う。ならば4六金にひもをつける意味で、▲4九飛と逃げるのがいいようだ。この変化も先手有望かと言われていたが、羽生の次の一手はそのどちらでもなかった。
△4六飛 ▲同 金 △5七角(44手目から46手目まで)
■羽生、飛車を切る
羽生は単に△4六飛と切った。▲同金に△5七角。羽生の四間飛車は4二→4四→7四→7六→5六→4六と縦横に動いてその使命を終えた。
控え室の継ぎ盤には森内の側に青野九段が、羽生の側に加藤九段、その横に鈴木八段が座り、検討が続けられる。単純な攻めのようだが、簡単ではない。変化は多岐にわたるので、その一例を紹介する。
(1)▲4七金△4八角成▲同金△2八飛▲5八金寄△2九飛成▲5九香△1九龍▲4一飛△5四香(先手は歩切れ)▲2一飛成△5八香成▲同金。以下△4六桂なら▲5五馬が厳しく、△4九龍なら▲7四桂△同歩▲8二角で4六桂が抜ける。
(2)▲4七飛△3九角成には先手に多くの候補手がある。
(2-A)▲4一飛は△2九馬▲2一飛成△4五歩▲3三馬△4六歩▲同飛△4三金打▲3四馬△同金▲4一飛成△5一銀。以下▲4三歩から▲4二歩成を狙うのは△3三角の王手の筋がある。これは振り飛車有望ではないか。
(2-B)▲3七桂は△3八銀▲4一飛△4七銀成▲同金△3八馬。金にあてて▲2一飛成をけん制するとともに、△4九飛を狙う。▲4八金なら△6五馬と引く手が大きい。これも振り飛車が相当にやれそう。
(2-C)▲5九飛の自陣飛車は鈴木八段の示した手。「ほお、苦労して勝とうというわけですね」(加藤九段)。こう打てば息の長い、ねじり合いの将棋になる。△5七角に対して森内が次の一手を考えている間に昼食休憩となった。
■鈴木八段の見解
昼食休憩時点における局面は、居飛車は駒得、振り飛車は玉の堅さや持ち歩の多さが主張点。鈴木八段の見解は、振り飛車側の羽生がかなり優勢というものだった。ここまでの展開は振り飛車が思うように指している。挑戦者の封じ手△4四角は好手だったと思う。△5七角に対して名人は▲4七飛△3九角成▲3七桂というように自然に指すのではなく、▲5九飛と打って粘りに出るのではないか――。
13時30分、再開。昼食休憩をはさんで、名人は考え続ける。
▲4七金 △4八角成 ▲同 金 △2八飛 ▲4九香(47手目から51手目まで)
■当たらない予想
振り飛車がこのように自然に指して優勢なら、△3二同飛や△4一飛という封じ手の予想は何だったのか――。鈴木八段は羽生の△4四角の感覚を絶賛する。
控え室の予想はなかなか当たらない。名人の次の一手は▲4七金だった。
■名人、苦しいか
森内名人の指し手▲4七金の次、△4八角成▲同金△2八飛と進む。先ほど検討された順を紹介すると以下▲5八金寄△2九飛成▲5九香△1九龍。そして次にどう指すか。
(1)▲6六馬や▲7八銀なら先手の歩切れを衝いて△5四香が厳しい。後手は△7四桂のような手さえくわなければ自然に勝てる。
(2)▲4四馬△4三銀▲3五馬と歩切れを解消しようとするのは、△3九龍▲5七馬に△3二龍と引き上げるのが「激辛流の指し回し。でも羽生さんはこんな暗い手は指さないか(笑)」(鈴木八段)。あとは3筋から歩を垂らし、もし先手が歩を受けてくれば、再び歩切れ。やはり△5四香が残る。
森内は▲5八金と寄らず、▲4九香と打って金取りを防いだ。
△4七歩 ▲5五馬 △2九飛成 ▲5六角(52手目から55手目まで)
■森内流の受け
加藤九段が大盤解説を鈴木八段と交代し、控え室に戻ってきた。
森内の▲4九香は控え室ではまったく予想されていなかった。次に△4七歩と打たれるとどうするのか。▲5八金寄では△2九飛成とされ、4九香を打った意味がなくなる。そこで▲5五馬と引き、△2九飛成に▲5六角と打つのが名人の読み筋ではないか。これが加藤九段の検討。
「この▲5六角はいかにも森内さんらしい受けですね。きっとこう指します。森内さんの持ち味がよく出ている」。
以下、たとえば△2五龍▲4七金△3六歩▲4六馬に△4五銀打なら▲2六歩の返し技がある。
そして▲5六角まで、加藤九段の予想通りに指し手は進んだ。
△3九竜 ▲4七角 △3六桂(56手目から58手目まで)
■意表をつく羽生の一手
大盤解説場では、森内名人の指した55手目▲5六角の次の一手が予想クイズとして出題された。解説の青野九段のおすすめは△3六歩。味のよい歩の伸ばし。次に△2五龍(馬と金の両取り)のねらいがある。▲4七角ならば、今度は△2五龍と馬取りに引く味がちがう。これでちょっと指しようがないのではないか――。大盤解説に訪れた皆さんも同じ読みだったらしく、人気は△3六歩に集中した。
ところが、羽生の次の一手は△3九龍。正解者はわずかに1名だった。
△3九龍以下▲4七角△3六桂まで指し手が進む。この攻め方はどうなのか。
▲5八金上 △4八桂成 ▲同 金 △4五金 ▲6五馬(59手目から63手目まで)
■重さと手厚さ
はじめはどうかと思われていた羽生△3六桂までの攻めだったが、これも十分のようだ。先手に桂馬を渡すことになるが、金を1枚はがせるのはやはり大きい。通常ならマイナスの7一玉の形が、5五馬の筋から外れてプラスになっている。
▲5八金上△4八桂成に対して、控え室では▲同香と取るのではないかと予想していた。森内の指し手は▲同金。小考の後、羽生は△4五金と打つ。
「普通の人が打ったら重く感じるんですが、打った人が打った人だから手厚い印象です」。
鈴木八段はそう言って笑った。
森内は▲6五馬と逃げる。
△4六歩 ▲2九角 △4七銀 ▲7五桂(64手目から67手目まで)
■早くも終盤
大盤解説場では加藤九段と鈴木八段の解説が行われ、その模様は16時から再開されたNHKの衛星放送でも放映されている。△4五金は中央を制圧する羽生好みの一手(鈴木八段)。森内名人の読みにもなかったのではないか。加藤九段はそう推察する。
▲6五馬の次、羽生は△4六歩と角を追う。角を左辺に引くようでは後手陣に響きがなくなる。森内は△2九角。これも予想外の一手。羽生は俗に△4七銀と打つ。こうなると2九角が浮いている。もし▲3八角と引いた形なら△4七銀に対しては▲同金△3八龍▲4八金引でまだ粘れるか、とは検討されていたのだが……。
両者の指し手は早い。森内は▲7五桂。角がただではないのか?
△2九龍(68手目まで)
■羽生優勢
控え室の検討では大差で羽生よし。森内の▲7五桂は最後の勝負手(青野九段)。しかし、次に▲8三桂成はあるとしても、後手玉に対する響きは薄そうだ。加藤九段は、▲7五桂の局面を前にして首をかしげる。名人はもうあきらめてしまったんでしょうか、という記者の声に「私だったらまだあきらめません。時間いっぱいまで使って考えます」。継ぎ盤の周りには大きな笑いが起こった。
羽生が△2九龍と角を取った時点で、駒割は金銀と香の交換。後手の羽生の大きな駒得。
「形勢は羽生優勢で間違いありません」(青野九段)。
▲8三桂成(69手目まで)
■最終盤の雰囲気
大盤解説では△2九龍に▲8三桂成なら、後手は△7四角と受けるのではないかという解説がされていた。ただし、控え室で青野九段が示していた△6四歩という手も厳しい。以下▲7二成桂△同金▲4一飛△6一桂。間接的に2九龍をにらむ6五の馬筋がそれれば△4八銀不成が決め手で、先手の4筋の防御ラインは崩壊する。ここを突破されては、先手玉は抵抗のすべはない。控え室に戻ってきた加藤九段と鈴木八段がそれを聞き、苦笑する。どうやら▲8三桂成には△6四歩が最短の勝ち方のようだ。
控え室には、最終盤の雰囲気が流れる。
△6四歩(70手目まで)
■夕食休憩前
大盤解説では青野九段が△6四歩以下の指し手を解説する。
17時30分過ぎ。羽生の指し手はやはり△6四歩だった。聞き手の山田久美女流三段が、「ああ」と悲鳴に近い声をあげる。
継ぎ盤の前では加藤九段が羽生の一連の指し回しを振り返る。「(62手目の)△4五金は羽生流の決め手でしたか」。感嘆の声。
盤面には、前日の封じ手前に垂らした森内の3二歩が残ったままだ。
■羽生、勝勢
△6四歩と馬取りに突かれた手に対して、森内は考え続ける。
控え室では「羽生勝勢」の声が強い。
森内名人は△6四歩以下▲7二成桂△同金▲3一飛△6一桂▲4一飛成として一手違いの形を目指すのではないか、というのは加藤九段の解説。
18時。両者は夕食休憩に入った。
▲――投了(まで70手で羽生挑戦者の勝ち)
■森内名人、投了
19時、再開。そして再開後、森内は一手も指さずに投了した。△6四歩と指されてから投了までの消費時間は29分(夕食休憩の時間をのぞく)。
控え室では大きなどよめき。スタッフ達は対局室に駆け出していった。最終手△6四歩まで、総手数70手。タイトル戦としては短手数の一局だった。
投了図以後、指すとすれば▲7二成桂△同金。そこで
(1)6五の馬をどこかに動かすのは、2九龍をにらんでいる馬筋がそれて、△4八銀不成でよくない。これは青野九段が夕食休憩前に指摘した通り通り。仮に▲6六馬は△4八銀不成▲同馬△4七歩成(△同馬なら▲4九龍と香を取られる)で一手一手。
(2)▲3一飛△6一桂▲4一飛成ならば△5一金と引くのが簡明。これは加藤九段が終局後の大盤解説会で指摘した手。▲同龍ならば△3三角の王手龍取りでそれまでとなる。
■終局後の風景
羽生の指し手は終始的確だったようだ。控え室のモニターテレビには感想戦の模様が映されている。テーマはまず、封じ手の直前▲3二歩のあたり。終局後すぐのインタビューで、森内は封じ手の▲3二歩はその場で思いついて指した、との答え。封じ手の△4四角は予想通りだった、とも。本当かな、とは控え室の声。名人の新手は、結果的には勝ちに結びつかなかった。
大盤解説会での加藤九段の解説も終わりに近づく。「森内名人の顔を見てください。実に穏やかですね」。大ビジョンに映し出された森内を差す。「でも、負けて穏やかではいけませんね」。場内からは大きな笑い声。毎局意欲的に新しい工夫を見せる両対局者の姿勢を賞賛して、加藤九段は解説を締めくくった。

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