この仕事を長く続けていると、棋士の悲喜こもごもに否応なしに立ち会うことになる。ある期の順位戦開幕戦、昇級候補と目された若手棋士がまさかの落手で必勝の将棋を落とした。涙を流しているその棋士を私は見続けることができず、写真を残せなかった。今ならばすぐに「仕事だから」と割り切って、ドライにシャッターを切るのだろうけれど。
棋士でも負ければこんなにうなだれるのかと初めて思ったのは、2003年度C級2組8回戦の達六段-飯島四段戦。大逆転で飯島四段が負けたときだった。昇級争いをしていた飯島さんは痛恨の2敗目。ただしライバルも次々と敗れていたので、望みがなくなったわけではなかった。ロビーの椅子に座っている飯島さんの前で星取表を取り出して、「みんな負けてますよ」と言うと、「いや、意味ないです……」。一瞬顔を上げたあと、またうつむいた。

ちょうど2年前のC級2組最終戦は、王将戦第6局の対局場である会津若松の東山温泉から中継をサポートをしていた。羽生王将に挑戦した森内竜王が4勝2敗でシリーズを制したあとの夜である。東京の担当者は紬記者(現在幸福な新婚生活で休業中)。大阪からは岡本初段(長い間おつかれさまでした)にファックスで逐一棋譜を送ってもらっていた。黙々と棋譜を打ち込んでいた夜遅く、関係者が去って閑散としていた控え室に森内新王将が現れた。A級順位戦を史上初の9戦全勝で駆け抜けた新王将は、すぐに棋譜のチェックをはじめる。タイトル戦の夜に何度も見た光景で、なるほど、トップで勝ち続けるのはこの努力があるからであろうといつも思う。最終戦、上から5人の状況は以下の通りだった。
宮田敦史四段(8-1)-西尾 明四段(4-5)
千葉幸生四段(8-1)-伊藤博文六段(1-8)
横山泰明四段(8-1)-平藤真吾六段(6-3)
山崎隆之五段(7-2)-藤倉勇樹四段(3-6)
飯島栄治四段(7-2)-佐々木慎四段(3-6)
山崎-藤倉戦は中盤で差がついて、山崎勝ち。キャンセル待ち1番手の権利を得た。ちょうど今期の橋本五段と同じ立場である。山崎現六段や橋本五段でもすっきり昇級できないのがこのクラスだ。自力の宮田、横山は力のこもった熱戦を展開中。相手はいずれもストッパーの資格十分の難敵である。
千葉-伊藤博戦、伊藤六段はすでに降級点が決まっていた。ここはすんなり千葉勝ちかと思っていたら、あにはからんや。千葉大優勢の局面から、次第にもつれはじめている。そのうち観戦記担当の加藤昌彦さんが更新された盤面を見て「あっ! 伊藤さんやったか!」と叫んだ。よく見たら伊藤六段側に必殺の決め手があり、必勝である。千葉さんにとっては、祈るような場面だっただろう。しかし伊藤六段はその決め手を見送る。結果は辛くも再逆転で千葉勝ちとなった。新王将は「この1勝は本当に大きい……」。かみしめるように、そう言った。順位戦最高勝率を誇る棋士にして、この感慨がある。素人目にはまだこれからと思われた2局では宮田勝ち、横山負けの予想を残し、新王将は去っていった。結果はまさにその予想通りだった。
深夜2時4分、最後に終わったのは飯島-佐々木戦。千日手指し直しの末、飯島勝ちとなった。「これだけいい将棋が指せたのだから……」。飯島さんは逆転昇級を確信したそうだ。しかし関係者は誰も見に来ない。結果は非情にも、次点だった。最後まで見届けた紬記者によると飯島さんは帰り道、「ハッピーエンドのドラマがあるでしょ? あれは全部ウソです。世の中にハッピーエンドなんてないんですよ」とやさぐれていたそうだ。
東西の将棋会館から送られてきた棋譜を私がすべて入力し終わったのは、明け方近く。今では終局後、ほとんど間を空けずに棋譜をアップしているが、当時の状況ではすべては無理だった。徹夜で白鷺城に新王将の撮影に行き、帰りの新幹線で深々と寝入った。眠い目をこすって将棋会館にいくと、まだ茫然としている飯島さんの姿があった。ライバルたちの棋譜を、全部並べ直しにきたという。納得がいかない手をあげては「何ですか、これは?」と嘆く。ちょうど対局に負けた後の上川さんもため息をついているので、飯島さんの地元の水天宮あたりで飲むことになった。移動中に飯島カーから見た、午後の勝どき橋がきれいだった。そのとき私はふと、昔読んだ森下現九段の自戦記の一節を思い出した。弟弟子の深浦現八段が6期目にしてC2を通過した際に書かれたものだった。
私もC2順位戦を5期戦ったが、5期目などは腐ってゆく自分との戦いだった。絶望感との戦いでもあった。……
同期や後輩が昇級してゆくのを横目で見ながら、勉強するのは相当に辛い。またそれよりも、果して自分は昇級できるのかという不安、一生上がれないんじゃないかという絶望感のなかで、いつか必ず昇級できると信じて行う勉強も、なかなか結果が形に表れないのだから本当に辛い。勉強しても無意味ではないか、どうせ上がれないんじゃないかという、荒んでいく気持ちとの戦いだ。……
――『将棋世界』1998年6月号
今も昔も変わらぬ、C級2組で悪戦苦闘する若手棋士の心情を余すところなく表した名文だと思う。「森下先生が書いてましたよ。『腐ってゆく自分との戦い』だって」。傍観者である私はいつでもそんなことを、適当な調子で言う。飯島さんは何度か首をかしげて、「最近聞いた言葉の中で、一番感動しました」。
飯島さんは翌年、文句なしの成績でC級2組を通過した。人知れぬ努力の結果であろう。まあ正直なところそれは特に驚かなかったのだけれど、かわいい彼女を見せてもらったときには心の底から驚いた。何ですか、それは。飯島さんの照れたような笑顔を見て、実は世の中にはハッピーエンドしかないのではないかという気がした。
